魔法にはピンからキリまでがある。
《光波》等の一般的な攻撃魔法は、威力にこだわりさえしなければ、詠唱抜きでも発動が可能であろう。
しかし、これからフェイクが唱える《他者移動》レベルのものとなると、そう簡単にはいかない。
二人はこれから唱える魔法を、確実なものにするための儀式を始めようとしていた。
まず、魔法陣の外輪となる、正確な円を描かなければならない。
1mある紐の一端をフィルが、もう一端をフェイクが持った。そのまま、紐をピンと張りながら、フィルが星の砂をこぼしつつ、フェイクの周りを一周する。これで、円は完成した。
次に、フェイクは円の中心に座し、瞑想を始めた。
円の中のみで大気が渦を巻き、小さな星の欠片がフェイクの周りを、キラキラと煌めきながら舞う。
フェイクが蒼い瞳を開いた時、そこには綺麗な蓮華紋様が生まれていた。
これで魔法陣の出来上がりだ。
フェイクは七法石を両手で握り、儀式瞑想の深いトランス状態へと入っていった。
ショウの悲鳴が止んだ。俯いていた頭が、ゆっくりと持ち上がる。銃創だらけのその顔から、苦悶の色は消えていた。
そして今、白銀の瞳が開かれる。《彼》は恐怖に震える戦闘部隊の者達一人一人を見つめて、ゆっくりと口を開いた。
「さて、汝等は、不本意とはいえ、仕える神を誤り、生きとし生けるものの総意たる、我の肉に、少なからず損傷を与えたわけだが……、どう贖うかね?」
一言一言切りながら、言葉と言葉の絶妙な間を与える。贖罪を促す《彼》の口調は、ショウのものとは大きく異なっていた。
戦闘部隊は《彼》の纏う圧倒的で目には見えない圧力に、逃げることすらままならない。死呼ぶ黒い風がその場を駆け抜けていた。
「あぁ、安心したまえ。汝等の主たる我は、汝等の罪如きで、死することはなく、また、その罪にも、寛大だ」
《彼》は笑顔を差し向けてそう述べたものの、畏れは強まるのみで、今や彼等の中には涙を流す者、失禁する者さえあった。
《彼》はそれを目の当たりにして、悲しそうな表情を作る。
「崇める神を誤りて、我にか細い牙を剥いた憐れなるものどもよ、我が内に堕ちて永遠なる安らぎを得るがいい」
《彼》の体中の銃創から、暗い混沌の塊が溢れ出す。それは鎌首を持ち上げる蛇の如くゆらゆらと揺れて、《彼》の号令を待っていた。
「《永久なる混沌(カオス・エターナル)》」
その号令とともに混沌はどっと拡がり、辺りの全てを侵食していく。侵食されたものは、人も無機物も全く関係なく、全てが混沌の内へと拡散し、無に帰していった。
それはビルの外壁をも破壊し、ビルの外へと無限にその触手を広げていった。
ショウは目を覚ました。そこは大きくて、ふかふかしたベットの上だった。
起き上がって辺りを見回すと、そこは八畳間程の部屋であった。
ショウは勝手にベットの下の引き出しを開けて、中に入っていた黒いワイシャツと、黒いレザーパンツに着替えた。次いで、小物入れから出した、《火蜥蜴(サラマンダー)》を模ったネックレスを巻く。
どういう理屈かは分からない。見るのも来るのも初めてだと思われる。しかし、そこは確かに彼の部屋だった。
CDコンポをつけると、彼好みのハードロックがガンガン鳴り響いた。
テレビをつけると、これまた彼好みのアクション映画が映し出された。
机に置かれたパソコンからは、何の苦労もせずに情報やゲーム、時には卑猥な画像をも引き出すことが出来た。
テーブルでは、「食べたい」と考えるだけで、いつでも好きな物が食べ放題、飲み放題だった。
ただし、部屋の出口には一枚の紙が貼りつけてあった。
『此れなる部屋は、望みの部屋。総ての望みが満たさるる。
されど汝、心せよ。
此れなる部屋より、出でること無かれ。
されば汝、総てを失うことであろう』
総てを失う……。
恐ろしげな言葉である。
しかし、この部屋を出なければ良いのなら、心配は無い。この素晴らしい部屋から出なければならない理由など、今のショウには残されていなかった。
「我、《空》の賢者、フェイクの名において、召喚の儀式を始めん。
スーク・ラ・ヴェルテ
スーク・ラ・ヴェルテ
ヴィラン・ゲィト・アニマス
キルテ・ル・シェイルド
遠き地に在りし、ラ・フランスのその肉と魂を、この地へと誘わん」
フェイクの儀式は最終段階へと達していた。
しかし――
ガッッボオォゥゥゥン
――奇妙な破裂音と共に、彼らの横にそびえていたビルの上部が、混沌の闇によって破壊された。そして、飛礫となった混沌が、彼らをも喰らわんと飛来する。
「危ないッ!!《防魔陣(ヴィシュデン)》!!!!」
フェイクは咄嗟に儀式を中断し、その場に溢れたマナを使って自分とフィルを結界で包んだ。
混沌の黒い死の飛礫は、さながらガラスに当たって落ちる雨粒の如く、結界に当たっては爆ぜる。
「いきなり、何?これ……」
フィルが聞いたが、フェイクは沈黙を保ったまま、答えなかった。
(……これは《混沌魔法》?まさか!15年前に封じた筈だ……)
混沌の飛礫を防ぎながら、フェイクは恐ろしい過去の再来を予感していた。
死の雨は、辺りのビル群を全て喰らったところでようやく止んだ。フィル達の周りはすっかり平らな荒野となってしまい、他に生者の気配はなかった。
荒野には、混沌が水溜りとなって、未だに残っていた。それらはなおも蠢き、集まり、盛り上がる。それはそのまま粘土の様に人を象りだした。
「……。フィル、ここは一旦戻ろう」
フェイクはその混沌の塊を凝視しながら呟いた。その額から、一筋の汗が垂れる。
「どうしたの?アレが何か知ってるの?」
確かに目の前のそれは、今まで出会ったどの悪魔よりも、強烈な魔力を放って来ていた。だが、フェイクの狼狽ぶりを見るに、どうやら彼は以前にもそれを見たことがあるように思える。
「理由は後でちゃんと……」
「逃がすと思っているのかね、空の大賢者よ」
その声は、フェイクが喋りかけた瞬間に響いた。細部まで完全に人のカタチとなった、混沌の塊の口が動く。
「こんなところで、15年前に汝が犯した罪を断つ機会が訪れるとは……。世界は狭いものだ」
銀髪の少年の姿となった、混沌が嘲笑った。
「えっ……、まさか、その姿は……!」
フィルはその少年を、驚愕と歓喜、そして恐怖が入り混じった表情で見つめた。
「ショウ……なの?」
「彼の拠り所……か」
《ショウ》もフィルを見つめ返す。その瞳には憎悪で光っていた。
どうして彼がそんな目で自分を見るのか、フィルはわけが分からず、ただ悲しかった。
それ故に《ショウ》の次の行動にも反応できない。
「フィル!逃げて!!」
フェイクが叫ぶ。フィルの眼前にはバスケットボール大の黒炎の弾が迫っていた。
ドッ!
フィルの腹部で弾が爆砕する。彼女は黒い炎を背負い、錐揉みしながら5メートル先の地面に叩きつけられた。
「……どうして、どうしてなの?」
なんとか起き上がって、フィルは潤んだ瞳で《ショウ》を見つめる。
「貴様は目障りだ」
その瞳を、《ショウ》は冷酷に一蹴した。
「一番に消えてもらおう」
その言葉と共に、彼の右腕がめきめきと音を立てて、黒光りする刃となっていく。
「そう簡単にはいかない」
フェイクは《ショウ》の前に立ち塞がった。
「フィルを目の前で殺されたら、ショウに申し訳ないからね」
「ショウは我以外には無い」
数秒流れる、一触即発の緊張感。無色透明なフェイクのマナと、複雑な色が絡まりあってどす黒く変色した、《ショウ》のマナが大気を満たす。
先に動いたのはフェイクだった。ミスリル製のトランプカードを、一度に四枚投げつける。カードは投げられた瞬間に転移して、瞬時に《ショウ》の前後左右、触れるギリギリのところで姿を現した。
「!?」
《ショウ》は咄嗟に前のカードを歯で止めたが、横と後ろのカードは防ぎ切れずに、彼の両腕関節部と、背骨の合間に突き刺さった。
背骨を通る神経がミスリルの冷たい壁で遮断されて、《ショウ》の下半身は力を失う。彼はそのまま前のめりに倒れてしまった。
すかさずトドメを刺すために突っ込むフェイク。だが、
「抜けろ」
這いつくばったままの《ショウ》が呟くと、ミスリルのカードは彼の身体から抜け、持ち主に襲い掛かった。フェイクは慌てて右に避けた。
「クッ!」
それは最初で最後かもしれないチャンスをふいにした、苦痛の呻きだったのかもしれない。
《ショウ》は断たれた神経を再生して、ゆらりと立ち上がった。
「二人がかりでようやく倒した我を、たった一人で倒すつもりかね?」
そして嘲笑する。その瞳には狂気が宿っていた。
(怖い……。これが本当に、ショウだっていうの??)
フィルは嘲笑う《ショウ》を見て、ただ震えることしか出来なかった。
もう、どれだけ時が流れただろうか。
ショウは望みの部屋のベッドで、漫画を読みながらふと考えてしまった。
ル・レクチェって子の弟のこと。フィルに会うこと。そして、自分自身のこと。全部ほったらかしている気がする。確かにこの部屋には何でもあった。しかし、果たしてこの状況が満たされているといえるのだろうか。
ショウは状況をもう少し深く確認しようと、横たわっていたベッドから起き上がり、手にしていた漫画本を置いて、CDケースの中を覗いた。
(……フィルのCDが無いな。想像しても現れない)
ショウは次にテーブルに座り、まだ一度も食べたことのない、キャビアを思い浮かべた。
(……やはり出ない)
最後に机に向かい、フィルの卑猥な画像を検索する。出てきたのは、10歳頃のフィルがスクール水着で微笑んでいる画像だった。
(……オイオイ、これって)
学校の水泳教室だった。どうやら、ショウの想像を超えるものは、この部屋では現れないらしい。
「これじゃあ望みの部屋っつうか……むしろタダの倉庫じゃねぇか!?」
冗談じゃない。こんな所に閉じ込められてたまるか!とばかりに、ショウはドアの張り紙を、ドアごと蹴り倒して外の暗黒の世界へと飛び出した。
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